古銭1

古銭2
庁舎の近くで発見した古銭 “十銭”、大日本”“昭和十五年”、と書いてある。


今年の夏期観測でのお話。
8月24日山頂に滞在して、微生物サンプル採取の時に庁舎すぐそばで発見しました。
表には“ 十銭  ”、裏には“大日本 ”昭和十五年
と書かれたアルミ貨幣を見つけたのは、静岡県立大の村田浩太郎博士です。

これは何でしょう? ということになりました。
「お賽銭かもしれない。」と同行の静岡県大・鴨川先生の発言もあったとか。

古来より富士山は信仰の対象であり、そのための登山が行われていました。
その内容は、梶山沙織著「第2章 富士山頂の信仰の世界」
(『日本医一の高所富士山頂は宝の山』しずおかの文化新書、p98-147、2016)に詳しいので、ここに少しご紹介します。

著者の梶山沙織氏によると、

「 富士山は長く信仰の対象とされてきた。
室町時代作とされる『絹本著色富士山曼茶羅図』には山頂部分に散華とともに三体の仏の姿が描かれ、山頂は仏教の世界として表されている。
『本朝世紀』(1149)には、末代上人()が山頂に大日寺を築いたとあり、
当時既に富士山の仏は大日如来とされていたことがわかる。
1269年成立の『万葉集註釈』に「いただきに八葉の嶺あり」と記され、
中世には八葉を富士山頂に当てはめる思想のあったことがわかる。
この「八葉」はとは仏教の曼荼羅をうけたものである。」
*末代上人 <まつだいしょうにん> 富士山信仰に深くかかわる人物と言われている。
と記されています。

八葉が具体的にどの峰に対応するかなどは諸説あるようですが、
以後「八葉めぐり」が定着し、「お八」転じて「お鉢」めぐりになったというのが定説とのこと。

八葉
         剣ヶ峰山頂より見た富士山頂Wikipedia から引用)



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 1980年代のテレカより  (黄色矢印は村田さんが拾った場所)
  http://npo.fuji3776.net/museum/teleca.html
 

梶山氏によると、
武田信虎が「八葉メサルル」という記述が『妙法寺記』(1522)にあり、
すでに、戦国時代にはひろく行われていたと考えられるとのことです。

また、
「山頂南部の大宮・村山山頂部には、大日如来像を祀る大日堂があり、
その西側の火口を見下ろす位置には“拝所”があった。
“影拝所”や“初穂打場”とも記されている。
登山者はここでご来迎(ブロッケン現象)を拝み、火口(内院)賽銭を投げ入れた」
と記されています。
この風習がその後も続いたようです。

このお賽銭をめぐる権利関係は、
中世から近世の国境(くにざかい)や、地元の利害を背景にいろいろの問題を生み、
村山興福寺、大宮(現富士宮)の浅間大社を含む、複雑な様相を呈していました。
明治になると、1868年の神仏判然令(廃仏毀釈)による1874年の「富士山大掃除」で、山頂の仏像類が撤去され、大日堂は大日如来の代わりに浅間大神が祀られるようになりました。

この間の紆余曲折など興味のある方は、梶山氏の上記の著作を是非お読みください。

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     臨時補助貨幣(Wikipedia より)
なお、Wikipedia によると、https://ja.wikipedia.org/wiki/臨時補助貨幣#昭和15年_-_18年制定のアルミニウム貨幣
臨時補助貨幣(りんじほじょかへい)とは、戦局悪化に伴う貨幣材料調達事情による様式変更を、勅令(後に政令)を以って臨機応変に対応可能とした「臨時通貨法」(昭和13年法律第86号)の下、日本で製造され発行、流通した補助貨幣の総称である。
1988年(昭和63年)の「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律(通貨法)」(昭和62年法律第42号)施行に伴い、臨時通貨法が廃止されると共に、臨時補助貨幣も、一部を除いて貨幣と見做されることとなった。
この貨幣が使われていたのは昭和15年(1940)から昭和63年(1983)までの間とのことで、終戦を挟む時期に使われていたようです。

さて、村田さんが発見したお賽銭は
誰が、いつ、どういう祈願と共に投げ入れたものだったのでしょうか?

いつの時代になっても、人々は大切な想いを託して、
富士登山に挑んでいたのではないかと、この古銭から伝わってきます。


(広報委員会)