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     黒田奨学会・田中崇和事務局長(財団法人・黒田奨学会の事務局で)


公益財団法人・黒田奨学会の田中崇和(takakazu)事務局長から、NPOのホームページにメールをいただいたのは、10月26日です。

田中様は、本NPOの野中到・千代子資料館を興味深く見てくださったこと。「昭和11年9月25日の「野中 到」氏の消息が分かる記事がありましたのでご報告。」という内容のご連絡でした。
 
 (公財)黒田奨学会は、現在筑前福岡藩藩主だった黒田家が福岡に残された資産を運用し、筑前エリア出身の大学生・大学院生に奨学金を給付する団体です。

 奨学会の歴史を書き残す為、戦前の奨学生の名前等を調査している中に、野中到氏の弟の野中清氏の名前が黒田家給費生の名前として出て来きたそうです。
残念ながら、野中到氏が給費生だったか否かまではわからないとのことでしたが・・・・

 戦前の黒田奨学会OBより寄贈していただいた昭和11年の福岡のローカル誌「福岡時報10月号」の中に、東京の日本工業倶楽部に於ける筑前会(筑前出身者の関東に於ける集まり)主催「黒田長成(ながしげ)侯爵古稀の祝賀会」の記事があり、付録として出席者約300名全員の名前が載っていたとのこと。
 玄洋社の頭山満や当時の総理大臣 広田弘毅等の出席者の名前がある中、
ノ行」に野中 到君、野中 清君と御兄弟で、黒田の殿様の古稀の祝賀会に出席されているのが確認できたそうです。

 気象学会へ向けて出発準備中でしたが、早速、田中様あてにメールを差し上げ、もしよかったら、福岡に滞在中に、黒田奨学会の事務所へ寄らせていただけないかと問い合わせたところ、快諾を頂き、「芙蓉日記の会」メンバーの山本と土器屋が出かけて行ったのが10月30日の午後でした。

 約束の14時にビルの3階の事務所に伺うと、本NPOの事務所の倍くらいの2部屋の沢山の本や資料が整然と並んだ会議室に通され、沢山のコピーをいただきました。
「ぜひ連れてゆきたいところがある。時間がないからかいつまんで」
と、福岡(黒田)藩における武家の家格区分に始まり分限帳による野中家と梅津家の位階などのご説明に引き続いて、昭和11年の『福岡時事』に載った「黒田侯爵古稀壽の祝賀」の記事に示された「野中到君、野中清君」のコピーなどのご説明がありました。藤の御紋は黒田家の裏紋で表紋は黒い日の丸とか。福岡という都市の成り立ち、黒田藩よりもと歴史を誇る(「倭の那の国王」の金印の時代から)博多商人の町であることあること。田中様は黒田奨学会の事務局長の他に、衛星(MIWAKA Satellite)などの事業もやっておられること、などなど、短時間に詰め込んだお話を伺い、
「警固小学校を見ましょう」と願ってもない有難いお誘いを受けて出かけました。
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  黒田奨学会から頂いた書類の一部と黒田家の紋のついたクリアファイル

奨学会のある大名地区から、10分程度のところに警固小学校が、そこから徒歩3分程度で梅津只園銅像後の石碑(戦時中銅を供出したため)を見て(おそらく、梅津家のあと)野中夫妻の長女・園子さんの通学に思いをはせ、梅津千代子氏が学齢のころ唯一設立されていたと思われる大名小学校の跡地(現在、商用ビルとして利用されている)、約1時間歩いて一回りして小学会の事務所に戻りました。


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警固小学校入口 たくさんの児童生徒やお迎えの父兄でにぎわっていました。
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警固小学校入口付近、懐かしい二宮金次郎の石像

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梅津只園銅像後の石碑はマンション前の駐車場わきにありました

短い時間でしたが、野中到氏と千代子氏を生んだ福岡の土地を歩けたことは一つの大きい収穫であったと感じました。頂いた沢山の資料(まだ、ほとんど未消化ですが)の整理を今後行い、「野中到・千代子資料館」に反映させてゆきたいと思っています。

「芙蓉日記の会」土器屋)