太郎坊のそよ風

認定NPO法人 富士山測候所を活用する会 オフィシャルブログ

カテゴリ: 歴史

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洋装の千代子   1914年(大正3年)頃 (千代子 43才)  

本日は、大正12年(1923年)2月22日に亡くなった千代子の没後100年を迎えています。

富士山測候所の基礎を作った野中至(到)・千代子夫妻について私たち芙蓉日記の会は、夫妻の偉業を歴史的な事実を踏まえて正しく知らせるために、その関連資料を展示するWeb上のデジタル資料館『野中至(到)・千代子資料館』を公開しています。



野中夫妻については小説や映画などでも有名ですが、多くのフィクションを含んでいることもあります。例えば…
  • 長女園子は、小説『芙蓉の人』で夫妻の山頂滞在中(1895年)に亡くなったとされていますが、下記の大森久雄編『富士案内・芙蓉日記』の解説に書かれているように歿年は1901 年、7歳だったこと。
  • 同じ小説で、指導者の和田雄治によって拒否されたことになっている気象学会入会が、実は和田の特別の計らいで、登山と同時に会員になっていたこと。
などを、本会がこれまでの調査を踏まえて、改めて公表しています。 

千代子について最も確かな資料は本人が書いた『芙蓉日記』が嚆矢ですが、現在は下記(大森久雄編『富士案内・芙蓉日記』平凡社ライブラリー、2006)で読んでいただけます。芙蓉日記は明治時代の雅文ですが、大森久雄氏による丁寧な注釈が付けられています。

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『富士案内・芙蓉日記』(平凡社ライブラリー、2006)

なお、本書は品薄状態が続いているようで、注文時点で品切れ、ということもありえます。その際には、古書店または図書館も探索してみてください。

また、没後100年にあたる本年は本会のフッド晴美氏とMartin Hood氏によって英訳が進められています。このほかにも、新しい情報(「この花会」のこと、「明治初期の物理学者」のことなど)が歴史研究者や野中至(到)・千代子夫妻の関係者や子孫の方々から寄せられるようになってきております。

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女子団の富士登山・この花會 會長は野中至氏の夫人   1907年(明治40年)7月6日 東京朝日新聞

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婦人富士登山隊の出発   1908年(明治41年)8月15日  時事新報

 芝公園第14号2番なる女子教育家千葉秀胤(ひでたね)氏は女学校教員其他夫人令嬢等の依頼により昨年初て安全と興味とを主眼とせるこの花會と称する女子団の富士登山會を組織し首尾よく第一回登山の目的を果たしたるより今年は稍其の規模を拡張し野中至氏の賛助の下に同夫人千代子女史を會長に仰ぎ愈々近日其の第二回登山會を開く由なり・・・

野中夫妻、特に今まであまり知られていなかった千代子について興味を持たれる方が、本資料館を訪問されることを、心からお待ちしております。



(芙蓉日記の会)



認定NPO法人富士山測候所を活用する会とは


2004年に無人化され、いずれ取り壊しの運命にあった旧富士山測候所。
富士山測候所を活用する会は、この施設を国から借り受け研究・教育の拠点にしようという構想で、2005年に大気化学や高所医学などの研究者が主体となって立ち上げたNPO法人です。

また
富士山頂という厳しい環境の中、その修理費・維持費や、運営費など
年間3000万円という莫大なコストが掛かるのです。

しかしながら、資金面に関しては、
公的補助もなく研究利用費だけで運営しております。

そこで、皆様からご支援、会員になっていただき未来へ
つなぐ研究の手助けをどうぞよろしくお願いいたします。

本NPOは、認定NPO法人(認定NPO法人は全NPOの2%しかない)です。
ご寄付に関しては、控除もありますので詳しくはウェブサイトなどでご確認ください。


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 Chiyoko in Western clothing, circa 1914 (Chiyoko, age 43).  

Today marks the 100th anniversary of the death of Nonaka Chiyoko, who died on 22 February 1923.
Nonaka Itaru and his wife Chiyoko took weather observations on the summit of Mt Fuji for almost three months in the winter of 1895, thus paving the way for a permanent Mt Fuji Weather Station. To commemorate their feat, the Fuyo Nikki Society (named for Chiyoko’s journal of this adventure) has set up an online museum to display relevant resources. The aim is to accurately inform the public about the couple's achievements based on historical facts.

This is important because the Nonakas’ sojourn on Mt Fuji has also been celebrated in more than one novel and several films. Unfortunately, this has resulted in some distortions of the historical record. For instance, in his novel, Fuyo no Hito (The Lady of Mt Fuji), Nitta Jiro suggests that the Nonakas’ eldest daughter Sonoko died while her parents were away on Mt Fuji. But in fact Sonoko passed away some years later, in 1901, when she was seven years old, as Ohmori Hisao points out in his commentary in the Heibonsha combined edition of Chiyoko’s Fuyo Nikki (Mt Fuji Journal) and Itaru’s Fuji Annai (Guide to Mt Fuji). Nitta also suggests that Itaru’s mentor, Wada Yuji, refused to allow Chiyoko to become a member of the Meteorological Society of Japan when she applied to join, but it appears that, historically, her application was accepted. The Society has published these and other facts, based on its investigations. 

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Heibonsha combined edition of Chiyoko’s Fuyo Nikki (Mt Fuji Journal) and Itaru’s Fuji Annai (Guide to Mt Fuji)

The most reliable source on Chiyoko is her own Fuyo Nikki, which is most easily available in Japanese in the above-mentioned Heibonsha edition (2006) edited and introduced by Ohmori Hisao. In addition, members of the Society are preparing a full English translation. 
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A women's climbing party leaves for Mt Fuji on 15 August 1908 (Meiji 41), translated from Jijishinpo

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At the request of the teachers of the girls' school and other ladies, Mrs Chiba Hidatane, a women's educator from Shiba Park No. 14-2, organised a women's group called the Konohana-kai, named for the goddess of the mountain, to climb Mount Fuji last year. This year, with the support of Mr Nonaka Itaru, we will hold our second climbing party in the near future, with Mrs Nonaka Chiyoko as its president.

We sincerely hope that those who are interested in the Nonaka family, and in particular in the previously little-known Chiyoko, will visit our museum.

(Fuyo Nikki Society)



About Mount Fuji Research Station,  a certified non-profit organisation
In 2004, the manned weather station on Mt Fuji closed, ending 72 years of continuous human habitation on Japan's highest summit, and the station’s buildings were scheduled for demolition. 

The Association Mount Fuji Research Station is a non-profit organisation founded in 2005 by researchers in atmospheric chemistry and high-altitude medicine, with the aim of borrowing this facility from the official sector and turning it into a centre for high-altitude research and education.

The repair and maintenance costs for this facility , as well as its operating expenses, amount to 30 million yen annually. As there are no public subsidies to meet these expenditures, the station depends for its funding solely on research grants and usage fees. We would therefore like to ask for your support and membership to help us continue our support for research into the future. 

We are a certified non-profit organisation (only 2% of all non-profit organisations are certified).
Please refer to the website for more information on the deductions available for your donation.



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『富士山頂写真集』(芹沢早苗,1985)に載っている山頂の測風塔で鯉のぼりを揚げている風景。一番下で真鯉の口元を押えているのが佐藤さん

先輩に写真家の芹沢さんがおられます(昨年逝去されました)。芹沢さんは佐藤さんが初めて富士山測候所研修勤務した昭和51年4月の時の班長で、富士山についていろいろとご指導いただいたとのことですが、山頂勤務をしながら富士山の写真集を出版されました。『富士山頂写真集』には佐藤さん最初に山頂勤務した時に芹沢さんが撮影した「山頂の測風塔で鯉のぼりを揚げている風景」が掲載されており、今も思い出になっている一枚だそうです。

さて、芙蓉日記の会のミーティングで前号(その1)につづいてご紹介するのは元・富士山測候所長の佐藤政博さん(本NPO監事)です。


札幌で気象庁(札幌気象台)に入りました。最初は観測、通信システム関係の整備保守管理に携わっていました。そのうちに世界に誇る富士山レーダーが日本で設置されたということもあり、いつかは自分もいつか携わりたいという希望をもっていました。

北海道ではアメダスなど観測の自動化が始まる時期でそれに携わっていましたが、富士山もそういう技術を必要とする職場なので、自分もそこでその技術を生かせればと思っていました。小さい頃から野山の自然の中を歩くことが好きで、北海道なので自然の中でスキーをやったりしていたので、「一回は富士山頂で働いてみたい」という気持ちを持っていたのです。

ちょうど新田次郎さんが退職されて間もなく北海道に来られて、測器課という部署でわたしの上司に会いに来られて、自分もそこに居あわせて話しを聞く機会がありました。その時に自分も富士山測候所に行けるのかなという希望を持ったのですが、行けなかったのです。そのうち仲間が上司に話をしてくれ、上司から「(富士山に)行きたいのなら希望を出せ」ということになり、昭和51年(1976年)に富士山測候所に転勤することが決まりました。

元測候所所長佐藤政博
元富士山測候所所長 佐藤政博

当時の富士山測候所には富士山一筋にやっておられた先輩が沢山いましたが、50歳前後でもう山頂勤務はきついという年齢になっていました。ちょうど自分が年齢的にそのあとを継ぐような世代だったことから、昭和62年(1987年)までの約11年間山頂勤務をし、富士山レーダーによる観測、地上観測を含めて山岳勤務をしました。

その後は富士山を離れ一時的には成田空港や新潟の勤務もあったのですが、最後に再び富士山に戻って勤務しました。その時がちょうど富士山レーダーの最後の時で(撤去する)富士山レーダーの後継の場所を選択するということについても自分がかかわったのです。レーダーが終わったちょうどその日に静岡(牧之原)でレーダーの開所式にも出席するという、何か複雑な思いをしました。

気象庁勤務40年間のうち17年間、約3分の1を富士山とかかわったので、そういう意味でわたしの人生の中で富士山というのは、非常に思い出深い職場です。気象庁を退職してからも、NPOの皆さんが富士山測候所にかかわって活用していくことに自分の経験が少しでも生かされればと思って、幸せを感じながら参加させていただいています。先輩もいなくなったので、先日も(雑誌の)取材を受けたのですが、自分の番がいよいよ来たのかなというのを実感しています。

(佐藤政博氏 談)


佐藤さんが北海道のご出身だというのは知っていたのですが、札幌気象台時代から「いつかは最先端技術のレーダーが稼働しはじめた富士山測候所で自分の技術を活かしたい」という強い希望をもっておられ、志願して富士山測候所に転勤して来られたということは初めて知りました。

その後は、都合17年間も富士山頂で気象観測に従事し、気象庁を退職した後もNPO法人の監事、そして『芙蓉日記の会』のメンバーとして、いまも富士山測候所にかかわっておられるのですから、文字どおり人生の大半は富士山とともに歩んでいると言っても言い過ぎではないでしょう。

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野中家を訪れ、貴重な資料の数々を見せていただいた中に野中至自筆の観測記録も見つかりました

そんな佐藤さんが「きっと、どこかに残っているはず」と長い間探し求めていたのが、明治時代に厳冬期の富士山頂で野中至が気象観測をした時の野帳(観測記録帳)の存在でした。その機会が訪れたのは2018年のことです。

芙蓉日記の会の関係で子孫の方のお宅を訪問する機会があり、そこで見せていただいた数々の遺品の中に、大版集計用紙に万年筆で書いた野中到自筆の記録が保管されていることがわかったのです。それを目の当たりにしたときは長年の夢がかない感慨もひとしおだったようです。

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野中至による観測記録の一部 富士山頂の風向及び速度 Direction and Velocity of Wind on the Top of Fuji November, 1895(1895年(明治28年)11月)

この貴重な観測記録は、その後『芙蓉日記の会』の気象研究家の山本哲氏らにより、様々な角度から分析が加えられ、気象学会でもすでに3回も発表して当時の観測データにスポットライトを当てているのはこのブログでもご紹介したとおりです。

殉難碑
太郎坊のブル基地の近くにある富士山測候所職員の殉難碑(富士山資料館特別資料集「富士山測候所」、2005より)

「日本一危険な職場」と言われた富士山測候所。その72年の有人観測の間には4名の方が殉職されています。そのうちのひとり、福田和彦氏が昭和55年(1980年)山頂で気象観測中に噴火口に滑落して殉職されたときは、2日後に山頂勤務の仲間と遺体収容に行かれたとのこと。未来のある26歳の若い職員の突然の悲劇を悲しんだ一人でした。このような現場の方々によって維持されてきた旧富士山測候所の意味をあらためてかみしめさせられます。

測候所長経験者は多くが亡くなられて、残っておられる方の中でも山頂勤務の経験者は少なく、佐藤さんはその中のお一人として貴重な存在です。これからも富士山頂にレーダードームがあったあの時代の語り部として貴重な経験談を私たちに伝えていっていただきたいものです。(芙蓉日記の会)

 











認定NPO法人富士山測候所を活用する会とは


2004年に無人化され、いずれ取り壊しの運命にあった旧富士山測候所。
富士山測候所を活用する会は、この施設を国から借り受け研究・教育の拠点にしようという構想で、2005年に大気化学や高所医学などの研究者が主体となって立ち上げたNPO法人です。

また
富士山頂という厳しい環境の中、その修理費・維持費や、運営費など
年間3000万円という莫大なコストが掛かるのです。

しかしながら、資金面に関しては、
公的補助もなく研究利用費だけで運営しております。

そこで、皆様からご支援、会員になっていただき未来へ
つなぐ研究の手助けをどうぞよろしくお願いいたします。

本NPOは、認定NPO法人(認定NPO法人は全NPOの2%しかない)です。
ご寄付に関しては、控除もありますので詳しくはウェブサイトなどでご確認ください。

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 10月12日発売『週刊現代』の掲載は173ページにあります

NHKで2000年から2005年まで放映された人気ドキュメンタリー番組「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」。200回近く放映されたこの番組の第1回目は、富士山測候所にレーダーを設置する男たちの物語でした。石原裕次郎の映画にもなったドラマチックな展開は今も記憶に新しく、人々を魅了しています。

富士山レーダー設置に関するメディア報道は今なお続けられており、この夏も各メディアから取材を受け、放映されたばかりでした。その話題も冷めやらぬタイミングで、今度は『週刊現代』から「グラビアで連載している《情熱の時代》の第11回に富士山測候所を取り上げるので取材したい」との連絡が入りました。

連載《情熱の時代》では東京タワー、通天閣、大阪万博と太陽の塔などといった第二次世界大戦から高度成長期にかけての日本を象徴する建築物を毎回取り上げており、富士山測候所もその一つとして選ばれたもの。

NPO東京事務所で取材に対応したのは、富士山に関する書籍を多数著している土器屋理事、富士山測候所所長だった佐藤監事、そしてNPO法人富士山測候所を活用する会を率いる鴨川専務理事の3人です。

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 富士山測候所の歴史を伝えるページ

グラビア記事は「ヘリコプターまで駆使した難攻不落の工事」「戦前から気象予測に使われた富士山頂」「気象衛星の発達で無人化するも高まる価値」の3部で構成。ふんだんに使われている迫力満点のモノクロ写真が当時の様子を生々しく伝え、文章の中でもこれ以上ないとっておきの当時のエピソードが引用されています。

土器屋理事は富士山レーダーの建設で中心としてあたった故・伊藤庄助氏とのインタビューの記録から、過酷な工事の話や富士山頂と東京・気象庁との間で行われた鏡と火を用いたという今では信じられないような交信テストの様子、富士山頂での気象観測に関する歴史的な経緯などを紹介。

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 本NPOにも相当数の写真画像がありますが、今回使われている写真は初めて目にするものも多い

佐藤監事は山頂での「日本一危険な公務員」といわれた過酷な勤務の様子をユーモアも交えて語っていますが、富士山レーダー観測停止の日のことをを振り返るくだりは万感胸に迫るものがあります。最後は、鴨川専務理事が現在行われている山頂でのNPOの研究の価値についてで締めくくりました。

この雑誌全体の中では比較的地味な記事ですが、取材に当たって周到な調査がなされていることには驚きました。本NPOのウェブサイトはもちろん、関連する出版物まで読み込んでこられた高名な編集者の取材姿勢には頭が下がる思いです。

取材を受けた3人も紛れもなく本稿のサブタイトルにある「日本の気象を見つめた天空の守りびと」。本稿はいずれ「歴史の証言」として貴重な記録になるものといえましょう。

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 ”歴史の証人”となった3人.左から鴨川専務理事、佐藤監事、土器屋理事


『週刊現代』は2022年10月12日(水)発売。
週刊現代 2022年 10/22 号のご購入はこちらから
皆さまにもぜひご覧いただきますようお勧めします。

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(広報委員会)




認定NPO法人富士山測候所を活用する会とは


2004年に無人化され、いずれ取り壊しの運命にあった旧富士山測候所。
富士山測候所を活用する会は、この施設を国から借り受け研究・教育の拠点にしようという構想で、2005年に大気化学や高所医学などの研究者が主体となって立ち上げたNPO法人です。

また
富士山頂という厳しい環境の中、その修理費・維持費や、運営費など
年間3000万円という莫大なコストが掛かるのです。

しかしながら、資金面に関しては、
公的補助もなく研究利用費だけで運営しております。

そこで、皆様からご支援、会員になっていただき未来へ
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本NPOは、認定NPO法人(認定NPO法人は全NPOの2%しかない)です。
ご寄付に関しては、控除もありますので詳しくはウェブサイトなどでご確認ください。

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雑誌『Alpinist』は2002年にアメリカで創刊された世界的に有名な山岳関係者の季刊誌です。この度 Martin Hood氏が "Eighty-Two Days on Mt. Fuji" (富士山頂の82日間)と題して野中至・千代子の山頂観測を最新号である2022年夏号に発表しました。Martin Hood氏は2020年に、本NPOの同好会「芙蓉日記の会」に入会、本ブログにも過去に情報提供をされたことがあります。

1895年(明治28年)1月4日、(日本のみならず世界的にも)初めて冬富士に挑んだ野中至の失敗(山靴に打ち込んだ釘や、持参した鳶口が富士山の堅い氷に歯が立たなかったため)と2月末の再挑戦のと、奇跡的な登頂成功が詳細に語られることからスタートします。その後の素晴らしい展開は、雑誌に載った記事でお楽しみください。

至の著作『富士案内』と千代子の著作『芙蓉日記』を引用する形で示されます。両者著書を覆刻した大森久雄編『野中至_富士案内・野中千代子_芙蓉日記』(大森久雄編、平凡社ライブラリー、2006)が記事の主要な情報源です。

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山頂の生活では、和歌が随所に挿入されていますが、英訳に当たっては英詩としての韻を踏むなどの、工夫が凝らされており、単なる記録というよりは文学作品としての『芙蓉日記』の紹介が行われています。
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気象庁時代に山頂からの写真を写真集にした芹沢早苗氏の写真も謝辞とともに引用されています。

 気象庁時代に山頂からの写真を写真集にした芹沢早苗氏の写真も謝辞とともに引用され、また現在、富士山測候所が本NPOによって夏期に研究利用されていることも記されています。

『Alpinist』のWebサイトの 「About Alpinist」 に ”we continue to produce stories that are carefully edited, beautifully illustrated and thoroughly fact-checked”(入念に編集し、美しいイラストと徹底した事実確認がなされた記事を作り続けます)という編集方針が紹介されているとおり、洗練されたデザインもさることながら、記事の内容については執筆にあたった Martin Hood氏も発行に至るまでは何度も事実確認を求められたとのことです。文末には、『芙蓉日記』の完全英語翻訳版が晴美Hood氏によって近く上梓されるということも記されています。

野中至の孫にあたる野中勝氏からも「淡々と二人の著述に沿って書かれている事に好感を持ちました。救援隊による救出の様子もていねいに書かれており、海外にまでこのような形で祖父と祖母を紹介していただいたことを感謝します」とコメントが寄せられました。

Marin Hood氏の論考は、大森久雄氏を中心とした「芙蓉日記の会」での議論も生かされています。野中至・千代子の1895年の壮挙が新たに世界的な視野での注目を浴びることになったことは「芙蓉日記の会」にとっても喜ばしく、さらなる研究のきっかけとなる出版です。

(芙蓉日記の会)






認定NPO法人富士山測候所を活用する会とは


2004年に無人化され、いずれ取り壊しの運命にあった旧富士山測候所。
富士山測候所を活用する会は、この施設を国から借り受け研究・教育の拠点にしようという構想で、2005年に大気化学や高所医学などの研究者が主体となって立ち上げたNPO法人です。

また
富士山頂という厳しい環境の中、その修理費・維持費や、運営費など
年間3000万円という莫大なコストが掛かるのです。

しかしながら、資金面に関しては、
公的補助もなく研究利用費だけで運営しております。

そこで、皆様からご支援、会員になっていただき未来へ
つなぐ研究の手助けをどうぞよろしくお願いいたします。

本NPOは、認定NPO法人(認定NPO法人は全NPOの2%しかない)です。
ご寄付に関しては、控除もありますので詳しくはウェブサイトなどでご確認ください。

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