昭和45年(1970年)発行、
こちらの本は、レーダー観測が軌道に乗り始めた当時の富士山測候所関係者の間で、バイブルのように読み継がれていました。後に、気象庁が発行した「富士山測候所安全対策要領」(東京管区気象台、1980年)は、この本を土台に書かれたと言われています。私たちNPOはそれを参考に「安全の手引き」を作成しました。その内容は毎年更新し、山頂利用者に配信しています。
上の写真はこの本、山本三郎著・「登山者のための気象学」の表紙を示します。裏表紙には、新田次郎の「まえがき」からの言葉が記されています。
”山の気象の教科書 新田次郎 ”
山本三郎さんの書いたこの本には、真っ先に”大空をぐっとみわたそう”という見出しが出てくる。やはり、山の経験者の山本さんが書いた教科書だなと思った。むずかしい理論より、まず空を見まわすのが、山の気象を理解する根本の原則である。すべてがこのような考え方によって書かれているから、読んで身に入る。これから山をめざす人たちは、この本を手にして一度だけではなく、何度か読むがいい・・・(「まえがきより」)”
今年の初めに開催されたサイエンスカフェに、この山本三郎氏のご子息の山本豊氏が参加しておられました。クラウドファンディングご寄付のリファンドの中から、鴨川事務局長の「富士登山安全の最前線」のzoom講義をお選び下さり、雑談の中で御父上様の話がでて、遺品をNPOに寄付されたいとのことで、「芙蓉日記の会」へ連絡が来たのでした。
実は、この本(第16版、1972年)の最初のページには 「本書の著者山本三郎氏は胃がんのため昭和45年9月6日に急逝されました。ここに謹んで哀悼の意を表します。出版部」という表記があります。
3月14日にzoomで豊氏にお会いした時は、まだこの本を拝見する前だったので、詳しい事情を知らずにお話をしました。現在、札幌でコンピュータ関係の管理職をしておられる豊氏は、91歳になられる御母上と衣装ケースにひと箱ほどの遺品を整理していて、古い天気図やメモ、大判の写真、書籍など、当時を彷彿とさせる多数の資料をお持ちとのことでした。
当日のお話の中で、山本三郎氏の当時の上司は藤村郁雄所長であったこと、気象予報官養成所(気象大学校の前身』本科22回の卒業生で、大井正一元気象研究所部長と同期で、倉嶋厚氏は先輩にあたることなどをお話しして下さいました。また、ご両親は山で知り合われ、三郎氏が山頂勤務中に写真を沢山撮られ、フィルムが切れると御母上様が新しい外国製の大判フィルムを冬でも8合目まで届けられたこと。当時スバルラインもなく、ふもとからの登山で冬山に一人で登った女性はほとんどいないと言われています。恐らくあの頃の冬の富士山に一番よく登った女性だったでしょうね。というような驚くべきことを淡々と話されました。
御母上(山本治美氏)はご趣味で絵を描いておられたとのことで、上の本の挿絵も書かれています。一例を示しますが、全般的に分かりやすく親しみやすいイラストです。「気象は雲に始まり雲に終わる」と口癖のように言われていたとのことが、この本を読むと、親しみやすいイラストとともにわかります。
山本三郎氏は富士山勤務を10年続け、体調悪化のため河口湖(船津)測候所勤務になり、5年後に亡くなったとのこと、体調よりも観測と研究を優先して働かれた事が、大井正一氏の追悼文にありますが、写真を映像的にコマ落としで撮影するなどの工夫を凝らされたことなど、最後まで全力で仕事をされた方だったようです。
また、治美様が、三郎氏の亡くなったあと、4歳の豊氏を連れて測候所まで登られたとのことや、1989-90年ごろにも、豊氏と登山されたことなども伺いました。
レーダー観測がその威力を発揮し始めた頃、山が好きで望んで勤務された測候所を、病気のために途中であきらめ、それでもなお、雲を眺めて、分かりやすい本を書き継がれ(再販のたびに新しい情報を加えられたとか)登山と気象に全力を尽くされ、惜しまれて亡くなられた(享年43)こと。
このような、物語を半世紀たったいま、御母上に背負われて登山されたご子息のお話として伺うことが出来たのも、クラウドファンディングのご縁の一つでしょう。「富士山測候所」の建物は単に建物である以上に意義深く感じられ、NPOを存続する責任のようなものを感じました。
(芙蓉日記の会、広報委員会)
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