右から読んで、「北駿郷土研究」(ほくすんきょうどけんきゅう)という小冊子が1933年(昭和8年)から3年間発行されていたことを、山楽カレッジ・事務局長の畠堀操八氏に教えていただきました。また、芙蓉日記の会会員による翻刻と解説を共有する中から、大森海門(明恍)に関する詳しいブログに行きあたり、「大森明恍と野中到」の関係が明らかになりました。

北駿郷土研究、第2年10月号の表紙。表紙絵は大森海門が描いた野中到の肖像
上の図はその第二年10月号の表紙です。富士山画家でこの冊子の発行者に関与したと思われる大森海門(大森明恍、本名桃太郎)による訪問記が載っています。
「野中到翁を訪う(上)」によると、 昭和9年(1934年)の夏、33歳の画家大森海門は、強力(ごうりき)梶房吉の情報を頼りに、茅ヶ崎の野中到(68歳)を訪ねます。長年私淑していた野中到に会えた喜びと、家族にも歓迎されたことなどの感激を記しています。
引き続き11月号には「野中到翁を訪う(下)」を執筆、絵画のモデルに依頼し快諾されたこと、雲博士として有名な阿部正直伯爵と思われるA伯爵からの言付けを野中に伝えたことなどにもふれています。
この貴重な訪問記はこちらから読むことができます。
なお、上の情報とは別のルートで、昭和8年と書かれた写真を『野中至(到)・千代子資料館』に入れています(資料番号P045)。

これは、本NPOが発足して4年後の2009年4月、廣瀬潔氏のご子息洋一氏から本NPOに寄贈された写真ですが、おそらく同じ頃と思われます。富士山測候所の72年間の有人観測のスタートはには、国際極年の観測を1年限りで終わらせたくないという藤村郁雄ら現場の職員の熱意と、三井報恩会による寄付が大きな役割を果たしたことは有名な話ですが、その仲介をしたのが廣瀬潔氏でした。
廣瀬氏は三井銀行に務める傍ら、日本山岳会に所属、「山岳気象学」の草分けとしても貢献がある方で、深田久弥の友人として、富士山頂からスキーで下降した爽快な紀行文「雪氷の富士行」が、『富士山』(深田久彌編、青木書店、1940)に載せられています。
興味のある方は、「野中至(到)・千代子資料館」(資料番号L019)でご覧になれます。
写真と上のスケッチを比較してみると、大森海門の素晴らしさがわかるでしょうか?
2つを合わせて、晩年の野中到の実像に少しでも迫ることができれば、資料館としても望外の喜びです。
(歴史上の人物は敬称略で書かせていただきました)
(芙蓉日記の会、広報委員会)
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