本日8月30日は「富士山測候所の記念日」。
野中到が冬季観測の必要性を訴え、今から131年前の明治28年(1895年)自ら建てたわずか3坪の小さな私設観測所にたてこもり82日間気象観測をした話はあまりにも有名ですが、その小屋が建てられたのが、8月30日ということで記念日になったということです。



(上)観測所の完成画と(下)見取り図


この小屋の建設の様子は、『東京朝日新聞』1895年(明治22年)9月15日に野中到が家族に宛てた書簡として掲載されています。原文は野中至 (到)・千代子資料館のサイトにありますが、ここではGeminiを使って、当時の情熱や過酷な状況がそのまま伝わるよう、現代のわかりやすい言葉に訳してもらいました。

(前略)毎日、建物の材料を組み立てるよう職人たちに急がせ、8月10日におおむね出来上がった。それを山の上へと運び始めたが、力自慢の男たちが霧のなかを一列になって背負い登っていく様子は、まるでたくさんのアリが築山にエサを運んでいる姿そのものであった。
8月12日、石工(いしく)2人を連れて、翌日に剣ヶ峰に到着した。みんなで一緒にツルハシを握って敷地を掘り下げてみたところ、あいにく炎暑に耐えかねて、1人がめまいを起こして岩の上に倒れ込んでしまい、仕事ができなくなってしまった。 もう1人も疲労が激しかったため、この日の作業は中止した。
8月14日、同じように炎暑が激しく、少しずつ掘り下げてようやく2尺(約60cm)ほどになった頃、左の隅にカチカチの硬い岩がむき出しになった。右の隅はツルハシも刺さらないほどカチカチの氷が層になっており、もうどうしようもなくなってしまった。そのため、棟上げ(建物の骨組みを組む日)の日まで日光に当てて氷を溶かすことにして、いったん山を降りた。

お盆の時期の山の上は涼しいイメージがありますが、炎天下の暑さで、作業員が倒れてしまうほどの過酷な環境だったことが、この日記から伝わってきます。

8月18日、またまた山に登った。
8月19日、石工や作業員を合わせて16名が山に登った。
8月20日、風と雨、そして寒さがともに強くて仕事がまったく進められず、作業員のうち2名が過酷さに耐えかねて下山してしまった。午後になると霧がいよいよ深くなり、目の前が何も見えない状態になった。衣服は濡れ、寒さにも耐えられず、全員が(寒さと疲れで青ざめて)まともな人間の顔色をしていなかった。《この夜、剣ヶ峰に積み上げて置いてあった木材や杉の皮が、大沢や火口のほうへ吹き飛ばされそうになったが、幸いなことに一つも失わずに済んだ。》どうしようもなく、やむを得ず仕事を休んだ。この夜、雨が少し止んだ隙を狙って、昨日から六合目に泊まっていた大工5名が山に登ってきた。

前回の「激しい暑さと氷」から一転して、今度は「激しい風雨と寒さ」、山の上の目まぐるしくも過酷な環境が伝わってきます。

8月22日、建前⁽建物の骨組みを組み立てる作業⁾に取りかかった。しかし、またしても濃い霧で目の前が何も見えなくなり、寒さもだんだん強くなって、手足が思うように動かない。作業員のうち仕事を休む者が13人も出てしまい、残って一緒に働いてくれる人がわずか3人になってしまった時は、本当にどうしていいか分からず困り果てた。それでも何とか、桁⁽けた:梁を支える横木⁾の周りや羽目板⁽外壁の板⁾まで打ち付けることができ、石屋のほうも前面の下段が半分ほど終わって、午後6時に引き上げた。
8月23日、今度は(一転して強烈な)炎暑のために頭痛を訴える者が3人現れ、疲れと体調不良に耐えかねて岩の上に横たわり、ついに仕事を休んでしまった。
8月24日、石工による建物の前面の石垣が完成した。大工による、部屋を仕切る壁の板(野地板)を張る作業も終わり、午後7時にこの日の仕事を終えた。
8月25日、濃い霧が立ち込め、正午頃からは風雨と寒さがともに強くなった。午後からはどうしようもなく、いったん仕事を休んだ。風雨が収まるのを待ったが、だんだんと強くなるばかりで待った甲斐がなかったため、午後4時半に部屋(宿舎)へ戻った。この日の夕方、棟上げ(建前)のお祝いにと、滝河原(御殿場口の山小屋)をはじめ、山小屋の仲間たち一同から、大きなお供え餅を私へプレゼントしてもらった。
8月26日、風雨はなおも収まらず、午後からは仕事を休んだ。今日も作業員が1人、過酷さに耐えかねて下山した。午前中は風雨と寒さが激しかったにもかかわらず、大工たちが急いで仕事をしてくれたおかげで、すべての建物が完成し、大工一同は下山した。この日、ものすごい暴風雨に立ち向かいながら、屋根の裏板の上に(防水のための)杉の皮を葺⁽ふ⁾いた時などは、本当に過酷な作業だった。 職人たちみんなに対して本当に気の毒に思ったが、「がんばろう」と慰めたり励ましたりして、なんとかやり遂げることができた。それにしても、山の季節(冬の足音)の早さと、今年の山登りができる期間の終わりが迫っていたため、破竹の勢いで工事を急き立てたのは、仕方のないことだった。


20日は寒さで全員の顔色が変わるほどだったのに、23日には再び「炎暑」で頭痛を訴えて倒れる人が出ています。標高3,776mの富士山頂がいかに過酷な環境であったかが分かります。この執念の建設が、のちの富士山頂での気象観測の礎となったのですね。

8月27日、杉の皮を押さえる縁⁽ふち⁾を亜鉛のワイヤーで締め付け、その上に隙間なく石を敷き詰めて、ついにすべての工事が完全に終わったのは、この日の正午だった。 山頂の神社(浅間大社奥宮)や気象台の出張所、その他の山小屋などへ一通り挨拶と用事を済ませ、午後4時半に石工12名とともに下山した。夜の9時に、滝河原へめでたく無事に帰り着いた。

剣ヶ峰は、神社から左へ5丁(約550m)ほど行った高くそびえる峰にある。そのため、石工が大きな岩に登って石を叩き割る様子や、中が空洞になった岩の上でツルハシを振り下ろす様子、また、霧が晴れたり濃くなったりするなか、石を背負ってハシゴを登り運ぶ様子を神社のあたりから遠く眺めると、人間が豆粒のように小さく見えて、実に見ごたえのある素晴らしい光景だった。

山の上は風が強いため、雨が細かい塵(チリ)のようになって、まるで濃い霧のようだった。この霧が衣服を濡らす濡らし方はまた格別(びしょ濡れになる)で、結局のところ、風が強いせいで雨霧が服に吹き込んでくるからだと思う。四方は真っ白で目の前もろくに見えず、風は肌を刺すように冷たくて手足も自由に動かない。まゆ毛、口元、ヒゲ、髪の毛などに霧が凍りついて白髪のようになり、全員がガタガタと身震いをしながら、顔を背けて風雨を避けつつ仕事を成し遂げた様子は、本当に凄まじく、圧倒されるものがあった。


特に平地と違って、ここは少し激しく動くだけでも、天気の良い温和な日であっても息が切れてしまうのには困り果てた。とりわけ激しい突風のとき、風に向かって立つと、まるで大きな饅頭⁽まんじゅう⁾を口の中に無理やり押し込まれたかのようで、息を吸うことさえできなかった。 しかし、工事中に(軽い)怪我人が1名出ただけで、ほかに大怪我をした者もいなく、まずは本当に幸運だった。

今回の工事については、山頂の神社や、山頂の表口の滝河原の佐藤与平次さんをはじめ、玉穂村(現・御殿場市)の有志の皆さんがひときわ尽力してくれた。また、大工や石工、作業員のみんなは、特に場所が険しく大変だったにもかかわらず、全員が必死になって働いてくれた。本当に感謝と感動の気持ちでいっぱいだ。

明日からは、須山口の一合目から薪(まき)や炭を、直接山頂へと運ばせる予定だ。お母様やお祖母様には長い間、音沙汰なし⁽不義理⁾にしてしまっていたので、この手紙にある「危険な場面」や「凄まじくて怖い部分」は読み聞かせず省いて、面白くて上手くいったところだけを読んで聞かせてあげてほしい。 そして、「到は無事だから安心してください」と伝えてほしい。


明治の偉人が、国家のために活動し、そしてそれを命がけで支えてくれた職人たちともに奮闘した熱いドラマが、この短い手紙に凝縮されていますね。最後の家族を思いやる言葉に、野中到の人間的な魅力が溢れています。

(注)東京朝日新聞1895年(明治22年)9月15日の記事「野中氏家族に送りたる書簡」の原文は野中至 (到)・千代子資料館のサイトを参照ください。



(芙蓉日記の会、 広報委員会)
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