太郎坊のそよ風

認定NPO法人 富士山測候所を活用する会 オフィシャルブログ

2025年02月


昭和の初期、国際気測象台長会議の結果、我国では富士山頂に、測候所を設置する事に決ったが、それ以前にも山頂に測候所を設けて冬期短期間の観測を実行していた。ところがかの室戸台風の来襲に刺激され、台風予知に高山気象観測の重要性が再認識されて、気象台では、それまで臨時の測候所を改築して、観測の充実をはかる事となった。
永原輝雄(日本山岳会会報255号より)
写真は完成した測候所を訪れた野中到(右から3人目、当時66歳)と恭子(右端)左端には藤原無線技士(新田次郎)の姿も見える。1933年(昭和8年)8月19日撮影 

本日(2025年2月28日)は野中至(到)の没後70年の命日に当たります。

昨年2024年には9月から12月まで、東京理科大学・近代科学資料館の企画展「富士山観測~日本気象学の礎を築いた中村精男と和田雄治」が開かれ、野中至(到)・千代子の明治時代の富士山観測に注目が集まり、和田雄治と地元の支援者らによる救援チームが、極寒の富士山頂で、奇跡とも言われる救出がどのように行われたかが紹介されました。

しかし、野中到が千代子とともに、和田雄治の救援チームの活躍で瀕死の状態で担ぎ降ろされた後のことはあまり知られていません。小説なども、二人の無事を記載するところで終わっているものが多いようです。到(戸籍上の名前)の没後70年に当たり、芙蓉日記の会で作成した年表をもとに、野中家のその後を追ってみました。

1896年(明治29年)-1923年(大正12年)
12月に下山したその翌年1896年、年頭の1月14日、神田・淡路町の写真館・江木本店で、千代子と二人で登山姿で撮影した下の写真は有名で多くのところで使われています。


 資料P003 野中至と千代子(1896年1月14日、江木本店で撮影)

到は『地学雑誌』に「雑録 富士頂寒中滯在概況」を掲載し、その概況を報告。さらに『地學雜誌』8~10月号に「富士山気象観測報文」を連続執筆しています。

実はこの年に、到は富士山頂に再度登っています。さらに、翌年1897年、翌々年1898年にも登山していることが記されています。あの救出劇の翌年から3年連続して富士山に登山していることになります。「毎年登山し、種々實驗を重ねつつ、傍ら建築材料、其供給地、剛力の募集法、又は山上の風土に適する觀象臺の圖案を調査し、其他斯計畫を實施するの方法に就き、日夜苦心し、・・・」との記述が『富士山巓の観象臺』(後述)にあります。

報知新聞には千代子の「芙蓉日記」(1896年1月7日~2月1日)が連載され始め、翌年の1897年千代子が応募した「論文」が「新選女大学」の第一等に選ばれ賞金を得ています。その翌年1898年1月9日には長男喬が誕生します。

1899年には、到の富士山巓に観測所を建てたいという志に賛成した同志らと「富士観象会」を設立、翌1900年2月28日に『富士山巓の観象臺』を発行します。


 資料E001 富士山巓の観象臺 編集:松島剛


富士観象臺の圖案

扨(さ)て野中氏は前に陳べたる實地の經驗により、斯事業の成敗は、全く設備の如何にあることを知りたれば、衆力を併せて大成を期せざるべからずとなし、爾來(じらい)一層愼重に調査に從事し

翌廿九年7月及八月再度登山し、其初囘には氣象臺の技手と共に登山し、曾て殘し置きたる寒暖計を檢べしに、最低氣温は攝氏氷點下三十三度を示せるを見たりといふ。

三十年九月には、新に撰にたる成就嶽の觀象臺敷地試驗のため、十名の人夫を伴なひて登山せしが、不幸にして日々強風大雨に妨げられ、一歩も外出することを能はず、七日目に風力の少しく衰へたるに乘じ、空しく下山したり。此の時は山下は快晴なりといふ。

又三十一年四月には、氏は富士郡淺閒神社に行き、成就嶽借用の認可を縣廳(けんちやう)より得、仝年八月黑田侯爵と共に登山せし時は、觀象臺敷地の熱量を測りたり。

氏はかく毎年登山し、種々實驗を重ねつつ、傍ら建築材料、其供給地、剛力の募集法、又は山上の風土に適する觀象臺の圖案を調査し、其他斯計畫を實施するの方法に就き、日夜苦心し、遂に一個の團體(だんたい)を組織するの必要を感じ、三十二年二月より雨寺尾博士、添田法學博士、中村氣象臺長、和田技 師、菊地博士、山川博士、箕作博士、緖方博士、田中館博士、大森博士等の諸氏と會合(かいごう)し、茲(ここ)に富士觀象會設立の志望を述べたり、其要項左の如し。(途中略)

なお、この間、明治31(1898)年6月~明治36(1903)5月まで5か年、東安川原に36坪1円80銭で、土地を浅間大社から借用していたことが、浅間大社・鈴木雅史氏の論文からもわかります(鈴木、2015)

1901年には福岡の千代子の実家に預けていた長女園子が7月18日に7歳11ヶ月で亡くなっています。また、到の良き理解者であった父・勝良が9月4日に亡くなります。富士観象会は委員長の渡辺洪基氏の逝去を機に1902年に解散します。
1903年に1月11日に次女千恵子が誕生しています。1905年には経営危機にあった御殿場馬車鉄道を買収し、個人で運営 (野中御殿場馬車鉄道)していました。(到と実弟の清が馬車鉄道の駅で移したと思われる写真があります(資料P028)1904-5年は日露戦争の年です。



1906年11月5日に次男厚が誕生。翌1907年には若い気象学者・佐藤順一が野中家を訪れ、到の助言を受けて、1月25日に登山して、気象集誌に論文を書いています。

1909年7月6日、三女恭子が誕生し、到は御殿場市 滝河原に「大麓閣」(現在その跡地が公園になっています)を新築します。山頂へ登る観測者のための休息所と山頂との比較観測のためです。



また、1912年には東安河原に倉庫を建設しています。後に「野中倉庫」とよばれ、のちの佐藤小屋の基礎になりました。
1915年5月25日に三男守が誕生します。野中家のこの当時の写真が資料P077-82に示されています。
しかし、1920年以降流行したスペイン風邪で多くの死者が出た時代です。その流行の波が収まったころ、家族の看病の後に1923年2月22日千代子が亡くなります。(享年51)この年の、9月1日の関東大震災では御殿場の「大麓閣」を失います。

1924年(大正13年)-1955年(昭和30年)
関東大震災後の混乱の中に大正が終わり、昭和に入ります。1927年(昭和2年)、鈴木自動車の援助を得た佐藤順一によって東安河原に佐藤小屋が建設され、1930年、佐藤順一が強力(ごうりき)梶房吉の助けを借りて登頂し、厳冬期の観測を成功させます(1月3日-2月7日)

1931年、第二極年観測のための予備調査(12月及び翌年1月)三浦喜一、菅原芳生、藤村郁雄、強力・梶房吉等: 野中倉庫の外壁を強風に耐えるよう、斜めに裾をはり出す方式を検討 しています。1932年の観測中の9月10日に新観測所建設視察のため、到は次男・厚、三女・恭子、三男・守をつれて登山しています。
なお、この時のエピソードが「野中到翁・晩年の富士登山」(永原輝雄)にあります。



その後、登山家で銀行家でもあった若い広瀬潔との交友があり、1933年3月5日付けの手紙の一部が広瀬氏の御子息から、本資料館へご提供いただいています。

それが、1年限りの山頂観測が以後の通年観測につながるきっかけ「三井報恩会」による寄付(東朝新聞に「富士山頂の観測所閉鎖の難を免る」の記事)につながったと思われます。到は当時、神奈川県茅ヶ崎市在住でした(『よみがえる富士山測候所』2012,成山堂)。なお、1933年にも到は恭子を連れて富士山頂を訪問しています。

1935年の東京朝日新聞の元旦には「富士の絶巓で迎ふ 新婚の第一春」と題した中央気象台技手 菅原芳生・恭子夫妻の記事に父・到の声が寄せられています。(F-002)

1936年には到 弟・清とともに黒田長成侯爵古稀の祝賀会(丸の内日本工業俱楽部)に出席(9月25日)しています。(清は黒田奨学会の名簿にも名前があります)

また、1937年、10月28日には、山と渓谷 社主催「冬乃富士座談会」に藤村郁雄、廣瀬潔らと到が出席しています。



しかし、1941年12月8日、真珠湾攻撃・対英米宣戦布告経と世の中が動き、終戦直前の1945年3月21日、三男守がインドネシア・ハルマヘラ島で戦死 (享年29)します。

戦後の1948年3月、橋本英吉著 小説『富士山頂』の初版が発売され、到は「赤入れ」をしています。(資料?)

戦後、逗子に住んだ到は、時折訪れる「山と渓谷社」などの対談に応じていますが、静かな晩年を送り、家族に見送られて1955年2月28日に亡くなりました。

改めて、70年前の野中至に思いを馳せて、更に歴史的な資料を集めて『野中至(到)・千代子資料館』を充実させてゆこうと考えております。

(参考)鈴木雅史:野中至の富士山頂気象観測所建設に関する富士山本宮浅間大社所蔵の文書について、富士学研究Vol.12No.2(2015)

(芙蓉日記の会)
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東京理科大学近代科学資料館のサイトより
東京理科大 創設者シリーズ第2弾 企画展『富士山観測』のデジタルアーカイブが東京理科大学近代科学資料館のサイトで公開されています。
→ 日本語版はこちら
→ 英語版はこちら 

昨年2024年には9月から12月まで、東京理科大学・近代科学資料館の企画展「富士山観測~日本気象学の礎を築いた中村精男と和田雄治」が開かれ、野中至 (到)・千代子の明治時代の富士山観測に注目が集まり、本NPOの野中至(到)・千代子資料館も特設ページを設けて対応しました。

ディジタルアーカイブは今後、長く公開されいつでも「入場」可能です。2024年9月-12月の素晴らしい企画展を思い出しご覧ください。いろいろな細部の再確認にもお役に立てると思います。

 東京理科大学近代科学資料館のサイトより
Googleストリートビューと同じように、順路に沿って見ることができます。

 東京理科大学近代科学資料館のサイトより
各展示物についている「インフォメーションマーク」の上にカーソルをもってくると、展示物の説明がポップアップし、さらにクリックするとより詳細な説明になります。

 東京理科大学近代科学資料館のサイトより
自記気圧計の展示です。

 東京理科大学近代科学資料館のサイトより

 東京理科大学近代科学資料館のサイトより
企画展開催中に会場に行けなかった方も、ぜひ、このアーカイブをご覧ください。
「芙蓉日記の会」による本ブログのバックナンバー、第1回(予告)第2回(内覧会)、第3.回第4回第5回もあわせてご覧ください。

 東京理科大学近代科学資料館のサイトより
クリックすると、さらに詳細な説明が現れます。

 東京理科大学近代科学資料館のサイトより

(芙蓉日記の会)
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第18回成果報告会を下記の日程で開催いたします。
日時:2025年3月9日(日)12時30分(開場12時)~17時(予定)
会場:会場(連合会館)とZoomによるハイブリッド開催
第18回成果報告会の詳細はこちら

成果報告会は、富士山頂や山麓の太郎坊で前年の夏に行われた夏期観測研究内容を一般の皆様に解りやすく報告する場として毎年開催しています。2024年の夏期観測では、68日間に渡って延べ401名の研究者が、32のプロジェクトを実施しました。

当日のプログラムは以下のとおりです。



現在、早稲田大学・大河内理事のプロジェクトにてカンボジアで鋭意観測中の2人の実行委員からメッセージが届きました。


アンコール・トム、バイヨン寺院前での村田実行委員長(左)と王副実行委員長(右)
(撮影:早稲田大学 田丸氏)


村田浩太郎 実行委員長(理事・埼玉県環境科学国際センター)からのメッセージ
「2024年の富士山での研究成果をご報告する場を設けることができ大変嬉しく思います。発表時間は限られておりますが、富士山ならではの研究の重要性や魅力を皆様と共有できれば、これに勝る喜びはありません!」

王一澤 副実行委員長(早稲田大学)からのメッセージ
「非常に多くの発表者が今年の成果報告会に参加してくださることを大変嬉しく思います。皆さんの素晴らしい発表を楽しみにしています。」

当日はこの二人の他に、副実行委員長の加藤俊吾理事も加わり、座長の南齋理事や事務局メンバーと共に運営いたします。
聴講参加をご希望の方は下記の申込みフォームよりお申し込みください。
申込みフォームはこちら
お申し込みいただいた方には予稿集(研究成果をまとめた冊子)を無料で差し上げます。

(広報委員会)
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山中湖から(2025年2月12日 撮影:小山朋子)Instagramより

2月はきれいな富士山が見える日の多い月です。
新しい年度に向けての準備をしながら眺めている方も多いでしょうか?

2024年の本NPOがメディアに取り上げられた回数の集計ができました。




富士山頂のマイクロプラスチック(大河内副理事長)の記事が出た2023年は世界的に取り上げられて海外メディアのピークが上がりましたが、国内で取り上げられている数は2024年もそれに次ぐものです。

その他にも、次のような情報があります。少しずつ注目度が上がっていると言えるでしょうか?


GoogleMapにて30,000回閲覧されました

これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

(広報委員会)

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 1998-2006年西安河原にあった小さい天文台(山本智教授提供)

本ブログでは「本NPOの20年を振り返る」と題して、
この20年間の活動のあしあとを振り返って時々掲載しています。

今回は西安河原にあった小さい天文台のお話です。
おぼえておられる方はいらっしゃるでしょうか?

2005年3月25日に気象庁で「第3回。富士山測候所山頂庁舎等有効利用検討委員会」が開かれ、その会議にオブザーバーとして、東京大学理学部・山本智助教授(当時:本NPO運営委員)のお名前があります。
富士山頂の冬季の低湿度に着目した山本助教授らはサブミリ波の観測用の天文台を西安河原に設置して、7年間にわたる観測を行っていました。
当時、その電源は測候所から分電していました。

小さい天文台は1998年-2005年夏期まで西安河原で観測を続けていましたが、2004年の測候所無人化の後、2006年夏期に撤去されました。
しかしこの7年間に、小型パラボラアンテナの開発により、350GHz/500GHzの両周波数帯を同時に受信できる超伝導受信機、900MHz帯域のAOS(音響光学型電波分光計)や衛星通信による遠隔制御システムなどを開発し、炭素原子の放つ電波を捉え、星間分子雲の成り立ちや分布についての大きな知見を得ています。


 (東京大学・RESCEUのパンフレットより)

山本智教授は本NPO法人の発足当初から、NPO活動に積極的に協力さり、特に学術科学委員会のスタート時にたいへんお世話になりました。
また、第1回目の成果報告会に始まり、2,3,5,6,7,9回目の成果報告会は東大小柴ホールでおこなっていましたが、その借用のときにもお世話になりました。
当時は終了後の懇親会もホールの前のロビーで行い、そのときは研究室の学生さんたち(天文台の関係者もおられたようです)に協力していただいたことなど懐かしいです。


(広報委員会)
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